
自由なアイデアが生まれるところ――三上と、AI時代の思考の育て方
物事をじっくり考えることのできる場所が、少なくなったように感じます。
何かを考えようとしても、すぐに通知が入り、ニュースが流れ、SNSを開けば次々に新しい情報が目に飛び込んできます。私たちは、いつの間にか「考える時間」よりも、「情報を受け取る時間」のほうを多く持つようになったのかもしれません。
自由なアイデアが生まれる「三上」
昔から、文章の構想を練ったり、考えを巡らせたりするのに適した場所として、「三上」という言葉があります。
三上とは、馬上、枕上、厠上 の三つです。馬の上、枕の上、そして厠、つまりトイレの中です。
この言葉は、中国・北宋の文人であり政治家でもあった欧陽脩(1007–1072)が語ったものとされ、『帰田録』に記されています。
欧陽脩は、自分の文章の多くは「馬上・枕上・厠上」で考えたものだと述べています。
現代風に置き換えるなら、
- 馬上は、電車や車での移動中
- 枕上は、眠りにつく前
- 厠上は、一人でトイレにいる時間
ということになるでしょうか。

共通しているのは、机に向かって「さあ考えよう」と力んでいる時間ではないことです。身体は何か別のことをしているけれど、思考には少し余白がある。そのようなときに、考えが自然につながり、新しい発想が生まれてきます。
2013年には、スマホを遠ざけようと考えていた
この「三上」について、2013年6月にも記事を書いていました。
当時は、こんなことを考えていたようです。
今どきは、スマホが三上にも入り込んでいます。せめてトイレと車の中では開くまい。寝室には持ち込むまい。
つまり、アイデアが生まれるはずの余白にまでスマートフォンが入り込み、人が自分で考える時間を奪ってしまうのではないか、という問題意識でした。人はひたすらインプットに励み、自分の中からアイデアを絞り出す努力ができなくなっているのではないか。当時は、そのように考えていたのだと思います。
それから十数年が経ちました。
いま読み返してみても、この心配自体は、決して間違っていなかったと思います。スマートフォンを開けば、情報はいくらでも入ってきます。動画、ニュース、SNS、メッセージ。少し手持ち無沙汰になると、私たちはすぐに画面を開きます。その結果、何もせずにぼんやり考える時間は、確かに減りました。
しかし、スマホは思考を奪うだけの道具ではなくなった
今は、2013年とは少し違う考え方をしています。
以前は、「アイデアが生まれる場所にはスマホを持ち込まないほうがよい」と考えていました。
現在はむしろ、「浮かんだアイデアを逃さないために、スマホやAIを上手に持ち込んだほうがよい」と考えています。
もちろん、通知を眺め続けるために持ち込むのではありません。自分の中に浮かんだ言葉や、まだ形になっていない気づきを、その場で捕まえるために使うのです。
移動中にふと浮かんだことを音声入力する。
眠る前に思いついたことを短いメモに残す。
散歩中に考えたことを録音する。
そして、その断片をAIに渡し、整理し、構造化していく。
スマートフォンは、思考を遮る道具にもなりますが、使い方によっては、思考を保存し、育てる道具にもなります。
アイデアは、完成した文章として浮かぶわけではない
アイデアは、多くの場合、完成した形では現れません。ふとした違和感、短い言葉、誰かとの会話で感じたこと。うまく説明できないけれど、なぜか気になる感覚の小さな断片として現れます。
以前であれば、その場で書き留めなければ、そのまま忘れてしまうことも多かったでしょう。ところが今は、音声入力や録音、AIなどを使うことで、その断片を残せるようになりました。さらに、残した断片を並べ替えたり、問い直したり、意味のまとまりを見つけたりすることもできます。
つまり、現代は単に「アイデアを記録できる時代」ではありません。アイデアを思考へと育て、構造化できる時代になったのだと思います。
AIは考える代わりではなく、考えを映す鏡になる
AIを使うというと、「AIに答えを出してもらうこと」と捉えられがちです。
しかし、実際にはそれだけではなく、自分が話したことを整理してもらう、曖昧な考えを言葉にしてもらう、いくつかの断片の間に、どのような関係があるのかを探る、別の視点から問い返してもらう。こうした使い方をすると、AIは人間の代わりに考える存在というよりも、自分の考えを映し返す鏡のような存在になります。
単に文章を作成することではなく、自分一人では見えなかった思考の形が、対話を通じて頭の中にあるものを外に出し、眺め、組み替え、もう一度自分の中に戻していく、その循環を助ける道具になり得ます。
三上は「場所」をさすのではなく思考が揺蕩う「余白」である
あらためて考えてみると、三上の本質は、馬の上、枕の上、厠の中という場所そのものではなく、日常の作業から少し離れ、思考が自由に動き始める余白といえます。
現代であれば、
- 電車に揺られている時間
- 車を運転している時間
- 散歩をしている時間
- 入浴している時間
- 眠りにつく前
- 一人でお茶を飲んでいる時間
などが、三上に近い時間かもしれません。大切なのは、その余白をすべて情報で埋め尽くさず、生まれたものを逃さないことです。
「スマホを持ち込まない」のではなく「思考の採集道具として使う」ということ。問題は、スマホがあるかないかではなく、そこで何をしているかなのです。
インプットから、思考の構造化へ

私たちは、情報を受け取ることには、とても慣れていますが、情報を受け取るだけでは、自分の考えにはなりません。
情報をいったん自分の中に置き、「自分はどう感じたのか」「なぜ気になったのか」「ほかの経験とどうつながるのか」と考える省察を行うことでで初めて知識や洞察へと変わっていきます。
AIやデジタルツールの真の価値は、インプットを増やすことやアウトプットの効率化ではなく、そこから生まれた気づきを記録し、整理し、問い直し、思考の構造へと変えていけることにあると思います。
入力するー話すー書き留めるー(AIと)対話するー構造化するー読み返すーそしてまた考える。
この循環をつくることが、AI時代の新しい「考える技術」なのかもしれません。
まとめ
2013年前、三上からスマホを遠ざけようとしていたのですが、現在は、少し違います。
スマホを持ち込みますが、情報を浴びるためではなく、浮かんだ考えを捕まえるために使う。その背後でAIのサポートがある。それは、考えて答えを出してもらうのではなく、自分の考えを整理し、育てていくために使う。
千年前、欧陽脩は馬上、枕上、厠上で文章を考えましたが、現代の私たちは、そこで生まれてくる思考を、即座に音声やテキストとして残し、AIとともに育てることができます。文明の利器によって考える力が奪われることもあれば、これまで以上に深く考えられることもあるのです。人間が考えなくなってはいけません。
三上は、今も残っています。変わったのは、その場所に持ち込む道具と、私たちの使い方といえるでしょう。
初出記事:
「自由なアイデアが産まれるところ―三上(さんじょう)」
2013年6月3日
原文
余平生所作文章多在三上乃馬上枕上厠上也盖惟此尤可以屬思爾
余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃ち馬上、枕上、厠上なり。蓋し惟だ此れ尤も以て思いを属ぬ可きのみ。
『帰田録』 巻二
現代語訳:![]()
私が普段作る文章は、多くの場合「三上」で考えたものである。
三上とは、馬上・枕上・厠上である。思索を巡らせるには、これらが最も適しているからだ。
「属思」は、思いをつなぎ、考えを巡らせ、文章の構想を練ることを意味します。
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