VUCAの隣に、BANIという言葉を置く
――熊本の地震に触れて、考えたこと

7月28日、熊本県熊本地方を震源とする地震が発生し、最大震度7が観測されました。被害を受けられた皆さま、避難や不安のなかで過ごしておられる皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
地震の報道に触れるたび、揺れが止んだあとに始まる時間のことを考えます。
家に戻れるのか。仕事はどうなるのか。連絡の取れない家族は大丈夫か。暑さのなかで、避難生活を続けられるのか。普段なら何でもないことが、一つずつ難しくなっていく。
こういう出来事に接すると、私たちは「想定外のことが起きた」と言います。変動性、不確実性、複雑性、曖昧性――VUCAという言葉は、まさにそのような現実を捉えるための言葉でした。予測しきれない変化が起きる。だから備えを見直し、情報を集め、状況に応じて判断する。その必要性は、疑いようがありません。
ただ、今回のことを考えていると、「想定外でした」という言葉だけでは、少し足りないようにも感じました。
揺れるのは、建物や道路だけではありません
地震が起きたとき、揺れるのは建物や道路だけではありません。
電気、水、交通、通信、仕事、学校、家族との連絡。日頃は問題なく回っているように見えた生活の基盤が、急に不安定になり、そこに健康上の心配や、避難生活の負担も重なります。受ける影響も人によって異なります。頼れる家族や近所の人がいるか。仕事を休めるか。持病があるか。住まいに戻れるか。少しでも生活の余裕があるか。
非常時には、もともとの暮らしにあった違いが、急に大きな差として現れます。
「何が起きたか」だけではなく、その出来事によって「何が露わになったのか」。そこにも目を向ける必要があるのだと思います。
BANIという言葉が、少し気になっています
そこで最近、BANI《バニ》という言葉を意識するようになりました。
脆い(Brittle)—不安である(Anxious)—因果関係が直線的ではない(Nonlinear)—理解しがたい(Incomprehensible)
最初は、また新しい横文字が出てきたな、くらいに思っていましたけれども、VUCAとは少し違う、案外大事な視点かもしれないと思うようになりました。
VUCAは、変化する世界への視点。BANIは、その変化の人の内面をどう揺らすかを見ている。
何とか回っているように見える仕組みが、限界を超えた途端に崩れてしまう。何を選んでも間違いに思えて、考えること自体がつらくなる。小さな出来事が、思いがけないところまで影響している。情報は多いけど、何を信じればよいのか分からなくなる etc.
地震のことだけではなく、仕事、家族、将来のことなど、いま多くの人が感じている生きづらさにも、少し重なるように思います。
支援で急ぐべきものは、答えではないのかもしれません
対人支援では、つい「これからどうしますか」と尋ねます。進路はどうするのか。仕事はどうするのか。次に何をするのか。本人が自分の人生を選んでいけるようにすることは、もちろん大切です。
でも、BANIという言葉を通して見ると、その問いを置く順番が少し違って見えてきます。
本人が将来を考えられないとき、選択肢が足りないとは限りません。情報を知らないからとも限りません。
失敗したら終わりだと思い込んだり、誰にも相談できなかったり、毎日の不安で精一杯だったりするとき、必要なのは、まず立派なキャリアプランではないのです。
「急いで答えを出さなくて大丈夫です」と言ってもらえること。
「何がいちばん心配ですか」と聞いてもらえること。
「一度に全部を決めなくてもいいですよ」と、一緒に小さな一歩を探してもらえること。
対人支援でいちばん大切なのは、本人が再び「自分のことを考えてもよい」と思える状態に戻ることです。
人を弱いと見ないために
BANIを意識するとは、人を「変化に弱い」「不安に負けた」と見ないためです。
そ「もっと前向きに」「もっと柔軟に」と求めてしまうのは簡単です。でも、動けない人がいるとき、その人が立っている地面にひびが入っているとしたら、まず必要なのは、足場を確かめることです。休める場所をつくることです。一人で抱えなくてよい関係をつくることです。失敗しても、また戻ってこられる余白をつくることです。
VUCAは、変化を読み、備え、選び直すために、これからも大切な視点ですが、その隣にBANIという言葉も置いておきたいと思います。想定外の出来事にどう対応するかだけでなく、その出来事が誰の生活のどこを揺らし、どんな不安を生み、何によって支え直されうるのかを見るために。
答えを出すことよりも先に、安心して答えを探せる場をつくること。
不確実な時代の対人支援にとって大切なのは、案外そこなのだと思います。
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