『徒然草』第155段
――四住期とインテグラルキャリアの視点から

吉田兼好、『徒然草』第155段に、次のような一節があります。
春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。
春が終わってから夏が来るのではない、春の中に、すでに夏の気配は始まっている。夏が終わってから秋が来るのでもない、夏の中に、すでに秋の気配は通っている。季節は、ある日突然切り替わるのではなく、前の季節の内側で、次の季節が静かに芽生えている。
兼好はまず、世の中で物事を進めるには「機嫌」、つまり時機やタイミングを知ることが大切だと言います。
たしかに、私たちの仕事や人間関係において、タイミングはとても重要です。
しかし兼好は、それだけで終わりません。
病になること。子どもが生まれること。死ぬこと。こうした人生の根本に関わる出来事は、人間の都合を待ってくれない、と言います。「いまは忙しいから」「もう少し落ち着いてから」「そのうち考えよう」そう思っていても、人生の大きな変化は、必ずしも私たちの予定表に合わせてやって来るわけではありません。
ここに、この段の深さがあります。
何かを提案するにも、話し合うにも、転職や独立を考えるにも、時機を読む力は欠かせません。
相手の状態、組織の空気、自分自身の準備。そうしたものを見ずに突き進めば、うまくいくものもうまくいかなくなることがあります。
日常の物事には、時機を読むことが大切です。しかし、本当に大切なことについては、時機を待ちすぎてはいけない。人生の根本に関わる問いは、「準備が整ったら考える」ものではなく、いまこの瞬間から向き合い始めるべきものなのだと、兼好は語っているように思います。
この一節は、現代のキャリアにも当てはまる話だな感じました。
ここでいうキャリアとは、進学、就職、転職、昇進、独立、退職といった履歴書に書く職歴や出来事だけではありません。もっと広く、私たちがどのように生き、どのような役割を担い、何を手放し、何を次の世代や社会に手渡していくのか。その全体を含んだ「生き方の軌跡=生き様」としてのキャリアです。
私は、何を大切にして生きているのか。
これまで担ってきた役割は、いまの自分に合っているのか。
自分の中で、すでに終わりつつあるものは何か。
逆に、まだ言葉にならないけれど、静かに芽生え始めているものは何か。
私たちはつい、キャリアを「次に何をするか」として考えます。次の職場、次の役職、次の収入、次の資格、次の働き方、もちろん、それらは大切です。けれどもインテグラルキャリアの視点では、もう少し深い問いを扱います。
キャリアの転機は、突然外からやって来るだけではありません。むしろ多くの場合、それは内側で先に始まっています。
いまの仕事に大きな不満があるわけではない。けれども、どこかで「このままでよいのだろうか」と感じる。
これまで大切にしてきた成功の形に、以前ほど心が動かなくなる。人から見れば順調なのに、自分の内側では次の問いが生まれている。それは、春の中に夏が兆している状態、あるいは、夏の中に秋が通い始めている状態かもしれません。そして人生後半になるほど、この問いはより静かなものになります。
前に進むこと。拡大すること。成果を出すこと。競争に勝つこと。それらを一生懸命に担ってきた人ほど、ある時期から別の問いに出会います。
この経験を、誰に手渡すのか。自分がいなくなった後に、何が残るのか。何を続け、何を手放すのか。何を成し遂げるかではなく、どのように在るのか。
『徒然草』第155段は、まさにそのことを語っているように思えます。
インテグラルキャリア研究所(ICI)では、キャリアをそのような広い意味で捉えます。仕事だけではなく人生全体の成熟や意味の変化を含めて考える。そのために「四住期」という古くからの人生観にも注目しています。
四住期とは、人生を大きな季節として見る考え方です。
- 学び、育つ時期(学生期《がくしょうき》)、
- 社会や家庭の中で役割を担う時期(家住期《かじゅうき》)、
- そこから少し距離をとり、人生を見つめ直す時期(林住期《りんじゅうき》/白秋期《はくしゅうき》)、
- そして、静かに手放し、次へと受け渡していく時期(遊行期《ゆぎょうき》)。
もちろん、現代の人生は昔のように単純には区切れません。年齢だけで「あなたはいまこの段階です」と決めることもできません。けれども、だからこそ四住期の考え方には意味があります。それは人生を固定的に分類するためではなく、いま自分の内側でどのような季節が始まりつつあるのかを感じ取るための、ひとつの地図になるからです。
ICIでは、このような人生後半のキャリアを「白秋期キャリア」として大切に考えています。
白秋期とは、単に老いや引退を意味するものではありません。前に進む力を失う時期ではなく、前に進むことだけに縛られなくなる時期。役割や成果から少し自由になり、人生全体の意味を読み直していく時期です。
この視点から見ると、『徒然草』第155段の「木の葉」のたとえは、とても示唆的です。木の葉は、ただ古くなったから落ちるのではない。下から新しい芽が生まれ、その勢いに耐えきれなくなって落ちるのだ、と兼好は言います。
これは、人生やキャリアにも通じます。
何かを手放すことは、単なる喪失ではありません。古い役割が終わるのは、ただ衰えたからではないかもしれない。その下で、すでに新しい意味が芽生え始めているからかもしれない。
退職、役職定年、子育ての一区切り、介護、病、喪失、組織からの離脱。これらは一見すると、何かを失う出来事に見えます。
けれども、その奥には、別の生き方への入口が隠れていることがあります。それまでの役割を降りることで、ようやく見えてくるものがある。肩書きから離れることで、はじめて語れる言葉がある。成果を追うことを少し手放すことで、人や社会に対する関わり方が変わる。
キャリアとは、積み上げるだけではなく、手放すことによって深まるものでもあります。
最後に兼好は「死期はついでを待たず」と語ります。
死期はついでを待たず。 死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。
死は、順番を待ってくれない。人は誰もが死ぬことを知っているけれど、それを本当に差し迫ったものとしては生きていない。そうしているうちに、死は思いがけずやって来る。
私たちが死を恐れ、それを意識の外に放置して実生活にうつつを抜かしているその時、死は背後に音もなく忍び寄ってきている。そしてポンと肩を叩いて、「時間ですよ」と、無愛想に知らせるのだ。それでも、死はずっと向こうにあるものとして考えている。『遊行の門』(五木寛之)
とてもインパクトのある言葉で衝撃を受けました。けれどもこれは悲観的な言葉ではなく、いまをどう生きるかという、とても前向きな問いではないでしょうか?
いつか考えようと思っていること。いつか伝えようと思っていること。いつか始めようと思っていること。いつか手放そうと思っていること。
その「いつか」は、本当に来るのか? もちろん、何でもすぐに行動すればよいわけではありません。人には準備が必要です。生活もあります。責任もあります。時機を読むことも大切です。
けれども、人生の根本に関わる問いについては、「もう少し落ち着いたら」と言い続けているうちに、季節が過ぎてしまう。『徒然草』第155段は、私たちにそう警鐘を鳴らしています。
いま、あなたの内側で始まっている次の季節は何ですか。まだ言葉にならないけれど、静かに芽生えている問いは何ですか。そろそろ手放してもよい役割は何ですか。そして、これから誰に、何を手渡していきたいですか。
ICIのキャリア観から見ると、キャリアとは「計画された経歴」ではありません。それは、自分の内側にすでに始まっている次の季節に気づき、それに応答していく営みです。
春の中に夏があり、夏の中に秋がある。そして、いまの自分の中にも、次の自分がすでに芽生えている。その気配を丁寧に感じ取ること。それが、インテグラルキャリアにおける大切な出発点なのだと思います。
『徒然草』は、古典でありながら、現代の私たちのキャリアや人生にも静かに語りかけてきます。とくに第155段は、人生の季節をどう読むか、そして「そのうち」と先延ばしにしている大切な問いにどう向き合うかを考えるうえで、今なお深い示唆を与えてくれる一段です。
私自身もまた、この文章を読みながら、いま自分の中でどの季節が始まりつつあるのかを考えています。キャリアを「前へ進むこと」だけでなく、「季節を読むこと」として捉え直す。そこに、これからのキャリア支援や対人支援にとって、大切なヒントがあるように感じています。
世に従はん人は、まづ機嫌を知るべし。 ついで悪しきことは、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、そのこと成らず。 さやうのをりふしを心得べきなり。
ただし、病をうけ、子産み、死ぬることのみ、機嫌をはからず、ついで悪しとて、やむことなし。 生、住、異、滅の移りかはる、まことの大事は、猛き河のみなぎり流るるがごとし。 しばしも滞らず、ただちに行ひゆくものなり。
されば、真、俗につけて、必ず果たし遂げんと思はんことは、機嫌をいふべからず。 とかくのもよひなく、足を踏みとどむまじきなり。
春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。 春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。 木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。 下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。 迎ふる気、下に設けたる故に、待ちつるついで甚だ早し。
生老病死の移り来ること、またこれに過ぎたり。 四季なほ定まれるついであり。
死期はついでを待たず。 死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。 人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。 沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
徒然草 第155段 現代語訳:ミス・イーランド
世の中に合わせて生きようとする人は、まず物事のタイミングを知るべきである。
タイミングが悪いことは、人の耳にも不快に響き、心にも受け入れられず、結局そのことはうまくいかない。だから、そのような折々の機会をよく心得ておく必要がある。
ただし、病気になること、子どもが生まれること、死ぬことだけは、タイミングを選ばない。「今は都合が悪いから」といって、止められるものではない。
生まれ、存在し、変化し、滅びていくという、この世の本当に重大なことは、激しい川が水かさを増して流れていくようなものだ。少しもとどまることなく、すぐに進んでいく。
だから、仏道のことであれ、世俗のことであれ、必ず成し遂げようと思うことについては、「時機がよいかどうか」などと言っていてはいけない。あれこれ準備や言い訳をせず、足を止めてはならないのである。
春が終わってから夏になり、夏が終わってから秋が来る、というわけではない。春のうちからすでに夏の気配は始まり、夏のうちから秋の気配は通い始め、秋はそのまま寒さへと移っていく。
十月には小春日和があり、草も青くなり、梅もつぼみをつける。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて、それから芽が出るのではない。下から新しい芽が兆し、その勢いに耐えられなくなって、葉が落ちるのである。
次に来るものの気配が、すでに内側に準備されているから、待っていた順番は非常に早く進む。生・老・病・死が移り変わってやって来ることは、これ以上に速い。四季にはまだ決まった順序がある。しかし死の時期は、その順序を待たない。
死は、必ずしも前方からやって来るのではない。実は、あらかじめ背後から迫っているのである。
人は皆、自分にも死があることを知っている。けれども、それをそれほど差し迫ったものとして待ってはいない。そうしているうちに、思いがけず死はやって来る。
沖の干潟は遠く見えるけれど、潮は磯のほうから満ちてくる。死もそれと同じように、遠くにあると思っているうちに、すでに足もとから迫ってくるのである。
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