『失われた私』(フローラ・R・シュライバー)

ぼろぼろになった一冊の本。
フローラ・R・シュライバー博士によって1973年に書かれた『失われた私』。

これは、シビル・ドーセットという女性が、多重人格障害(今の解離性同一性障害)と診断され、治療を受けていく過程を描いたノンフィクションです。どうやら初版のようですが、当時の社会の関心を集めた本だったように思います。

欧米では、この本は社会現象となり、多重人格障害という診断名が広く知られるきっかけになったそうですが、このころ日本でも、二重人格を扱ったドラマや映画が制作されたり、どこかオカルトチックな素材にもなっていた気がします。

この本に買った当時(1980年代後半)、臨床心理学、特にフロイトの精神分析に夢中になってました。それで、多重人格の症例に関する本をいくつか読みましたが、この『失われた私』は、とても衝撃的でした。

シビルという女性の中に、16もの異なる別人格が存在するという事実に、ただただ驚愕しつつ、精神科医であるコーネリア・ウィルバー博士による11年にもわたる治療の記録として勉強させていただき、また、息をのむようなドラマとして楽しみました。

詳細に描写された16の人格それぞれが、まるで独立した個性を持っていること。そして、彼女たちの苦しみの根源には、幼少期の虐待という過酷な経験(トラウマ)があったこと、などが印象的です。

そんなわけで、この本は長らく私の本棚の片隅に鎮座していました。
ところが、10年ほど前、なんと、この『失われた私』は、医師、心理学者、そしてシビル本人(実名シャーリー・メイソン)までもが、ある種の共犯関係の中で作り上げた捏造だったという衝撃的な事実を知りました。

改めて、医療という行為の複雑さ、そして倫理の重要性を深く考えさせられました。
現在では、患者への不適切な暗示や誘導の危険性、診断の慎重さ、客観的な診断基準の必要性、医学的な概念が社会に与える影響などが、より深く考慮されるようになり、より慎重で科学的なアプローチの必要性が、改めて強調されるようになったとのことです。

「グロリアと三人のセラピスト」

少し話は逸れますが、臨床心理の世界には、かつて「グロリアと三人のセラピスト」という記録映像がありました。心理学界の重鎮であるC.R. ロジャーズ、F. パールズ、A. エリスの三人が、それぞれ異なる自身の理論に基づいて、一人の女性グロリアにカウンセリングを行う様子を記録したものです。これは、長らく心理学を学ぶ上で非常に貴重な教材として活用されてきました。しかし、インフォームドコンセントやプライバシーといった倫理的な問題が指摘され、現在では欧米を中心に動画を視聴することが難しくなっています。

人を扱う仕事は、常に教育・啓発と倫理という、二つの側面を抱き合わせているのだと、改めて感じさせられます。『失われた私』という一冊の本は、私にとって、心理学への興味の入り口であると同時に、なかなか深い倫理観を教えてくれる本としてこれからも本棚の一隅に鎮座すると思います。

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