タコ的な「心」
──『タコの心身問題』から考える、「心のあり方」

少し前に、ピーター・ゴドフリー=スミスの『タコの心身問題──頭足類から考える意識の起源』を読みました。
哲学者でありダイバーでもある著者が、タコやイカといった頭足類の進化と行動を手がかりに、「心とは何か」「意識はどこから生まれるのか」をたどっていく本です。

著者によれば、進化は「心を少なくとも二度つくった」。ひとつは、私たち人間や鳥を含む“脊索動物ルート”。もうひとつが、タコやイカを含む“頭足類ルート”です。

頭足類と出会うことは、おそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう。

タコは、私たちとは約6億年前に分岐した心の持ち主です。神経の多くが脚(腕)に分散し、各腕がある程度自律して動きながら、状況によっては全身がひとつのまとまりとして行動します。この“分散した心”のあり方は、人間の感覚からは遠いものでしょう。

本書からの気づきは、

「その意識は、お互いほとんど想像できない世界観を生きているかもしれないが、人類とは全く違う仕方で高度化した“心”がありうる

という事実に改めて向き合わざるを得なくなったことです。

「『タコの心身問題』のゴドフリー゠スミスと語る、生き物の意識人間と動物の境界をゆるめる」対談を読んで

最近、DISTANCE.media で公開された、ゴドフリー=スミスと哲学者・下西風澄さんの対談シリーズ「『タコの心身問題』のゴドフリー゠スミスと語る、生き物の意識」(全4回のうち、#1〜#3が公開中)も読んでいます。

とくに印象に残ったポイントは、次の3つです。

  1. 人間と動物の境界をゆるめる
    • 八百万の神や草木国土悉皆成仏といった日本的感性と、デカルト的な「人間 vs 動物」の境界線の話。
  2. 「主観性の焦点化」という考え方
    • 生命レベルの原初的な主観性が、進化のなかでだんだん焦点化され、動物や人間の豊かな経験世界になっていく、というイメージ。
  3. AI(大規模言語モデル)は「意識なき知性」だが、他の心を読む“解析ツール”になりうる
    • LLMに意識はないとしつつ、クジラの歌や鳥のさえずりの解析といった、他種のコミュニケーションを理解する道具として期待している、という話。


ICIで取り組んでいる“心のあり方”に通じる視点がいくつかありるのですが、そのうち上記の 3つについて まとめてみました。

① 「人間中心主観」から「多様な主観性」へ

ひとつめは、人間と動物の境界をゆるめてみるという視点です。

タコの心を考えることは、「人間の主観性」だけを基準にするのではなく、

  • タコのタコなりの世界の感じ方
  • クジラの、クジラなりの時間の流れ
  • そして、AIがもっている“統計的な視線”

といった、多様な 「主観性のかたち」 を想像し、視座を高めるために非常に大切なことだと思います。

ICIでは、「異なる声の歓迎」「経験共有の文化」を大切にしていますが、

  • 世代の違う人
  • 文化の違う人
  • 組織の中の少数派

といった「人間の多様性」だけでなく、

  • 人間以外の生き物
  • AI
  • さらには「場」そのもの

まで含めて、「それぞれ固有の主観性をもつ存在」と見なすことができるのだと思います。

人の話を聴くことは、その人の“非人間的な部分”にも一瞬だけ触れさせてもらうこと。

そう考えると、「わかり合えなさ」もまた、尊重すべきものとして見えてきます。

② 「分かれる自己、つながる自己」と、「場」としての心

対談の第2回で、タコの腕ごとにある“部分的な自己”と、全体としてまとまる自己のあいだを行き来する存在として、タコが語られていました。

タコは「より統一された存在のあり方」と「より分散した存在のあり方」のあいだを行き来しているのではないか。

この話は、ICIにおけるインタープレイス・コミュニティやミーティングの「場」と通じるものがあると思います。

  • 一人ひとりは、それぞれ違うバックグラウンドや価値観をもつ“別々の腕”のような存在。
  • 対話が深まる瞬間、ふと「場全体がひとつの心を持ったように」動き出す。

ICIでは、場の設計やコミュニティづくりを通じて、「個」と「場」のあいだを行き来する自己 を育てることを考えてきました。

タコは、それを生物レベルで体現している存在です。

  • ばらばらでいてもいい
  • でも、ときにはひとつの動きとしてまとまることもできる

この“分かれる自己/つながる自己”というイメージは、これからの組織支援やコミュニティ設計を考えるうえで、とても豊かなメタファーといえるでしょう。

③ AIは「心」ではなく、「心を映すレンズ」として使う

第3回の対談では、大規模言語モデル(LLM)と意識の問題が扱われています。

ゴドフリー=スミスは、かなりはっきりと「LLMに意識はない」と言います。

  • LLMは、テキストの次の語を予測するための仕組みであって、神経系をもつ有機体とは構造がまったく違う。
  • 知性と経験(主観的な感じ)は別物であり、通常のコンピュータ・ハードウェアは、どんなに高度でも経験をもたないだろう。

という立場です。

その一方で、クジラの歌や鳥のさえずりをAIで解析し、彼らのコミュニケーションのパターンに迫ろうとする研究には、強い期待を寄せています。

このスタンスは、MirAIプロジェクトやミス・イーランドの位置づけを考えるうえでも、とても参考になります。

  • AIに「心」があると見なさない。
  • しかし、人や動物、場の動きの中にある「心のパターン」を
    見つけ出す レンズ/解析ツール としては、積極的に活用する。

タコの心身問題が教えてくれるのは、「心は一種類ではない」ということと同時に、

“心のようにふるまうもの”と、“実際の主観的経験”は区別して扱うべきだ

という冷静な線引きでもあります。

この線引きを曖昧にしないことが、人とAIが共創する場を、安全かつ創造的に育てるための大事な前提になると感じています。

おわりに──タコ的な他者と向き合う

タコのことを考えるとき、私たちは「理解できる他者」ではなく、“ほとんど理解できないかもしれない他者” と向き合うことになります。

けれど、その練習を通じて、

  • 人間同士の「分かり合えなさ」
  • 動物や環境との「ズレ」
  • そしてAIとの「違い」

を、少しだけ丁寧に扱えるようになるのではないか──そんな予感も、同時に抱きました。

ICIではこれからも、「心のあり方」をめぐる探究の中に、こうしたタコ的な視点も、静かに取り入れていきたいと思っています。

参考文献・リンク

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