画に描いた餅を食らう―言葉が現実になる瞬間

昨日の読書会では「実存」について語り合いました。

人間は意味をどうつくり出し、どう生きるのか。サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉から、虚無と不安のただ中で選択と行為によって意味を編み出す営みについて話しあい、言葉が心に響く、思索の深まりを実感できるひとときでした。

その後、ふと道元禅師の『正法眼蔵』の「画餅がびょう」を思い出しました。

仙厓 画讃

「絵に描いた餅は食べられない」ということわざはよく知られています。
けれど道元はこれを反転させ、「画餅《がびょう》も餅である」と説きます。つまり、経典も言葉も作法も、ただの代用品ではなく現実の一部として働くものだ、ということ。餅の絵が、絵としての餅である以上、それをどう受け取りどう生かすかは私たちの行い次第ということですね。

この視点は、実存主義で「本質はあとから立ち上がる」ということばと共鳴するように思います。
あらかじめ与えられた意味はなく、私たちの行為と選択によって意味は現実化する。道元もまた、言葉や表現を虚しいものとは見ず、それらを現実の働きとして肯定します。両者が指しているのは同じこと――「人が描き、選び、行じることで世界は立ち上がる」という真実です

こうしてみると、読書会で扱った実存の議論と、道元の「画餅」の思想は、深いところでつながっているように思えます。絵に描いた餅をただの幻と見るのではなく、現実の一部として引き受ける。そのとき「画餅」は「活餅かつべい」となり、行為を通して私たちを養います

これは単なる比喩にとどまりません。絵空事のような構想や、無味乾燥に見える学びも、すべてはリアルな行為です。自分が選び取った一歩一歩には責任が伴い、その意味で私たちは常に厳しい「超現実」を生きています。机上の思索や言葉のやり取りが、単なる絵ではなく、いま生きている自分の現実を形づくる力に変わる瞬間。そこにこそ学びの真価があります。

「画餅も餅である」。――こういう発想、いいですね!

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