『グレース・アンド・グリット』(Grace and Grit)

『グレース・アンド・グリット』は、インテグラル理論の創始者であるケン・ウィルバーとその妻トレヤ・ウィルバー(旧姓キラム)が共に歩んだ、5年間の闘病と死のプロセスを描いた一冊で、私がインテグラル理論を深く学びたいと考えるようになったのは、この本で、人間ケン・ウィルバーの生き様を知ったのがきっかけでもあります。

トレヤの日記や日常に、トランスパーソナル心理学の旗手でもあったケンの哲学的・心理学的考察を交えながら、トレヤの深い内省と、当時の極端なニューエイジ傾向を批判しつつも伝統医学や代替療法(酵素療法、瞑想、イメージ療法など)との共存を模索するケンの姿を織り交ぜながら綴られています。

突然の病という試練を、深い愛と覚悟で迎える姿や、死に直面しながらも「自我を超える」内面の自己超越の過程が丁寧に描く感動的な一書です。

ただの「闘病記」ではなく、「生きること」と「逝くこと」を一対のものとして受け容れていくプロセス、「死の旅を通じての霊的覚醒」というスピリチュアルな、人の心の内面をも描くものとなっており、乳がんという現実的な疾患に直面しながらも、そこにとどまらず、「病をどう生きるか」「死をどう迎えるか」という本質的な問いをめぐって、心と身体、スピリチュアリティと現実、自己と他者を“統合的に”見つめていく姿が、愛と気高さをもって描かれています。


 インテグラルキャリア研究所(ICI)では、人の「成長」と「統合」を軸に据えた対人支援を探求してきました。
それは、自己実現にとどまらず、“自己を超えた自己”との出会いへと至る旅──すなわち、スピリチュアルな次元と深く共鳴しながら現実社会に根ざしていく成熟のプロセスです。

「死」と「生」の交差点に立つ知恵

『グレース・アンド・グリット』を読むことは「“死”に出会うことは、“生”の本質に触れること」であり、「生」と「死」を循環する円環の人生観は、ICIの提案する人生観でもあります。『グレース・アンド・グリット』に描かれているのは、まさにその旅路の姿でした。

トレヤが「すること(doing)」から「あること(being)」へと重心を移していく変容のプロセスは、成人発達理論における“自己変容的発達”と響き合っています。

ケンの内省は、後に生まれる「インテグラル理論」のシステム思考・多次元的視座・統合的認識の実践の姿勢が深く息づいており、これは私たちが大切にしている「インテグラル的な態度」そのものと言えるでしょう。
また、終末期医療やサポートの選択における「複数の視点の統合」も、まさにAQAL(全象限・全レベル)思考の具現化です。

「死を学ぶことは、生を学ぶこと」、そして“個人の生”を深く耕すことが、“集合の風土”をも変えるのだという、私たちが掲げるビジョンとも響き合います。

本書は、キャリア支援やカウンセリングに関わる方々にとって、“病”や“死”は避けて通れない問いに対する、支援者としての姿勢を見直させてくれる気づにが満ちています。
また、ウィルバーの深遠な理論を、感情・物語・実践という多層的な形で“腑に落とせる”一冊であり、読むこと自体が統合的プロセスの実践になるでしょう。
「人はどのように生き、どのように死ぬのか?」という問いは、人生の最終章に向けた準備でもあります。支援者としての自分を超えて、一人の人間としての人生観が問われる機会となるでしょう。

ぜひ、トレヤの肉声をお聴きくださいね。

トレヤ自身の言葉で語る物語
(翻訳:ミス・イーランド)

こんにちは。私はトレヤ・キラム・ウィルバーと申します。
以前からテリーという名前で知っている人も多いと思います。ウインドスターには初期の頃から関わっています。

ちょうど5年前のこの同じ月――1983年8月に、ケン・ウィルバーと出会い、心から恋に落ちました。私はそれを「一目惚れ」ならぬ「一触れ惚れ」と呼んでいました。

その4ヶ月も経たないうちに私たちは結婚しましたが、結婚式の10日後、私は乳がんのステージ2と診断されました。新婚旅行は病院で過ごしました。その後、再発を2度経験し、その間に従来の治療や代替療法の数々を受けてきました。
しかし、今年の1月になって、がんが脳と肺に転移していることがわかりました。担当の医師たちは、私の余命を2年から4年だと言いました。

そんな中で、トミーから今夜の講演を依頼されたとき、最初に浮かんだのは「私はまだ病気なんですけど」という気持ちでした。他の登壇者の方々は、人生の試練を乗り越えたり、その困難から何か役立つものを創り出したりした方たちです。

今夜、この後にお話しされるのは、私の古くからの友人のミッチェルさんです。
そんな中で私は「まだ病気の私に話せることがあるだろうか」と考えました。

それでも、病気になってからの自分の歩みを振り返ってみようと思いました。
これまでに、電話や対面で何百人もの方々に相談に乗ってきました。
また、サンフランシスコで「がんサポートコミュニティ」という場所を共同で立ち上げ、今では毎週何百人もの方々が無料でさまざまな支援を受けています。

自分の経験をできる限り正直に綴り、多くの方が「役立った」と言ってくださる文章も書きましたし、本として出版することも目指しています。でも、そうして「やってきたこと」をリストにしてみたとき、「あぁ、またいつもの落とし穴にはまってしまった」と思ったんです。つまり、奇跡的に病気が治ったとか、世の中で何か具体的な成果を挙げたことを「成功」としてしまっている、と。

でも本当は、今夜ここでお祝いしようとしているのは、そういうことではなく、内面の変化――心の持ち方の変化だと思うんです。私にとってそれは、毎日取り組んでいる「スピリチュアルな仕事」という形で現れています。私はとてもエキレクティック(折衷的)で、どの伝統からでも学びますし、どんな人の言葉も読みます。
でも、もしこれをやらなかったら、もしこの時間を取らなかったら、私の状況はすぐに怖くなったり、落ち込んだり、時には退屈にさえなってしまいます。けれど、毎日この取り組みを続けていると、人生に絶えず引き込まれ、この信じがたい状況においても、常に新しい発見と挑戦に胸を躍らせることができます。

この実践を続けることで、進行がんという感情のジェットコースターさえも、私にとっては本当の意味での「平静さ」を養う練習の場となり、同時に人生への情熱をさらに強く感じられるようになりました。
がんと仲良くなること、もしかしたら早く、しかも苦しい死が訪れるかもしれないという可能性と仲良くなることは、自分自身をあるがままに受け入れること、そして人生をあるがままに受け入れることを、私にたくさん教えてくれました。

人生には、どうしても変えられないことがたくさんあるとわかりました。人生に意味を見出させたり、公平であれと強いることはできません。

この「あるがままの人生」を、悲しみや痛み、苦しみ、そして悲劇ごと引き受けるようになってから、ある種の平安を感じるようになりました。そして、苦しむすべての存在と、より本物の形で繋がっているように感じられるようになり、より開かれた思いやりの心を持てるようになりました。また、どんな形であれ力になりたいという思いが、ますます強くなりました。

「人生は誰にとってもいずれ終わる」というのは、がん患者の間ではよく知られている言葉です。私は運が良いと思っています。なぜなら、あらかじめ警告を受け、その時間を生かす機会を与えられたからです。

私はいつも、人が亡くなったときの年齢に目が留まります。事故で亡くなった若い人の記事を新聞で見かけると、切り抜いてとっておいたことさえありました。死を無視できなくなったからです。それによって、より一層「生」に目を向けるようになりました。

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