「吾」として生きる〜友田不二男の自己論

『友田不二男研究』

私たちは日々、「私とは何か」「ほんとうの自分とはどこにあるのか」という問いを、意識的にも無意識的にも抱えながら生きています。

この「[自己]」という存在をめぐる問いに対して、静かに、しかし深く向き合い続けたひとりの実践者がいます。友田 不二男。日本のカウンセリング界における草分けのひとりでありながら、東洋と西洋の思想を往還し、「自己」を探る営みを独自に展開した人物です。
友田は、カール・ロジャーズの「自己理論(self-theory)」を日本語に翻訳し、広く紹介した第一人者でもあります。

彼が注目したのは、単なる理論ではなく、「人間とは何か」という根源的な問いでした。ロジャーズの理論を紹介しつつも、それを絶対視することなく、「理論とは確立されたものではなく、あくまで探究の手がかりにすぎない」と、冷静に見つめていたのです。彼の探究は、やがて東洋思想の文脈へと広がっていきます。道元、夏目漱石、『論語』や『老子』などの古典に触れながら、「自己」という言葉が指し示すものを、固定された概念としてではなく、生成的で関係的なプロセスとして捉え直そうとしました。
特に興味深いのは、「吾」「我」「予」という三つの一人称に注目した晩年の論考です。

(われ)は「真の自己」──自らの本質と静かにともにある存在。
(われ)は「欲求的・概念的自己」──文化や言葉に彩られた、自我の衣をまとった姿。
(われ)は「関係的自己」──他者との関係性のなかで現れる、文脈的な主体。

これら三つの「われ」は、単なる語義の違いではなく、自己という存在が、本質・欲求・関係という多層的な層で成り立っていることを示唆しています。

この見立ては、ICIの探究に通じるものです。

共感や省察は、単に他者を理解するスキルではなく、自己という深い井戸をのぞきこむ行為でもあります。ロジャーズが語った「自己一致」も、ジェンドリンが提示した「体験過程」も、そして友田が言う「吾」も、すべては“まだ定義されていない自己”との出会いへの招待状なのです。

現代の私たちは、しばしば「我」──欲望と概念にとらわれた自己──を自己のすべてだと誤解してしまいがちです。しかし友田は、もっと静かで、奥深く、何ものにも支配されない「吾」の存在に光を当てました。彼の思想は、知識よりも生き方としての「学び」への誘いであり、私たちがいま支援者として、あるいはひとりの人間として、どのように自己と向き合うのかを問い直す大きなヒントを与えてくれます。
「自己とは、永遠の課題である」と語った友田の言葉は、簡単に答えを求めがちな現代にあって、静かにこう呼びかけているようです。


今ここにある“吾”に、もう一度、耳をすましてみませんか?

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